こちらのコラムは1995年より『ばんぶう』(日本医療企画)に掲載されたものです。
There is no second. |
1998 |
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カズの降板に始まり、全敗に終わった日本チーム。サッカーファンでない僕でさえもテレビにくぎ付けとなってしまった。チケットの横流しとそれに群がる日本人サポーター、一枚数十万円のチケット。ワイドショーは連日のように放送した。
さまざまな意見が飛び交った。岡田監督の采配がどうのとか、中田のプレーがどうのとか、やっぱりカズを残しておいたらよかったとか、まあ、言いたい放題である。
日本チームはよくやったという人達、いやいや、チーム作りがなってないという人達。またまた、一億総評論家の国民性が露呈された。
いずれにせよ、無責任である。この際、もう一度、ワールドカップというものを見直してみる必要がある。
ぼくは、この戦いを見て、ある言葉を思い出した。
There is no second.
二位はないということである。
これは、サッカーの世界の言葉ではない。ヨットの世界での言葉である。ヨットの世界では二通りのレースがある。ひとつはよーいどんで何十隻もの船が競争をする一般的なレース。この場合は、二位でも三位でも、最下位でも意義のある順位である。もうひとつは、アメリカスカップに代表される一対一のマッチレースと呼ばれるもの。この場合、トーナメント方式で試合をし、最終的に挑戦者がタイトルホールダー(過去一度だけオーストラリアがタイトルを取ったが、それ以外は100年以上アメリカが保持している)と対決するというもの。この場合、勝者のみが問題で、それ以外は二位だろうが、最下位だろうが同じである。
まさしく勝者のみが栄誉を受けられる戦いである。いいも悪いも、そういうもだから仕方がない。
そして、敗者であるためには一つの不文律がある。それは、勝つまで百年だろうが、二百年だろうが挑戦を続けていくという強い意志がなくてはならないということである。これが、アメリカスカップに参加する責任である。
その責任を持つがゆえに、批判をしても、いわゆるサポーターであり続けられるわけである。
一体、日本のサッカーのサポーター達にどれくらいの意志があるのだろうか。孫子の代まで応援を続けるもののみがサポーターである資格があることを知っての行動なのか。
某選手に空港で水をかけた自称サポーター氏、会長に暴言を吐いた人に孫子の代までの応援を期待する。
ワールドカップとはそういう戦いなのだ。二位も三十二位も同じなのだ。
さて、自己責任という大きな命題の欠如が、実は現在の不況や社会の閉塞感をもたらしている一因のようにも思える。
本当に責任を持つということは、精神的に自立することであるが、そのためには、自己の大切感というものを確立する必要がある。
(ここからはコマーシャル。)
そのため、前著「癒しのタイムマシン」(泉書房)では、誘導イメージという方法を、CDを聞いて体験していただきました。このたび、好評に付き、第二弾として、「幸せの虹を作る」(泉書房)を作りました。永井美奈子さんの語りと斎藤恒芳さんの音楽で大切感を取り戻して下さい。
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