85歳の田中さん(仮名)は、長年の重労働で曲がった腰をかばいながらクリニックにやってくる。
「先生、どんな具合かねえ。あたしゃまだ生きられるかねえ」「そんなのはわからんよ。お迎えが来るのはあちらさん次第だからねえ。ただ、それまで元気かどうかって言われれば、まあ、多分大丈夫だと思うよ」
「そりゃそうだわ。寿命はお天道さん次第だからねえ。ま、先生が大丈夫ってんだから、あたしゃ心配なんかしないよ」
「ところで、腰に電気でもかけるかい」「結構、あたしゃ体は丈夫だからねえ。そんな病人と一緒にしないでおくれ」
「…(じゃあ、なんでここへ来てんだろう)」「邪魔したね」そう言って田中さんは診察室を出て行った。
大島さん(仮名)。浅草をねぐらにする60がらみの自称、テキヤさんだ。血圧と不眠症で通ってくる。
そんな2人がある日、鉢合わせた。待合室には10人ほどの患者さんがいた。オールバックでダボシャツに雪駄履き。見るからに只者ではない風体の大島さんの両隣には、誰も座らない。
そんなところに田中さんが入ってきた。つかつかと大島さんの方に近づくと、「どっこいしょ」と隣に座った。2人は初対面だった。
「あんた!ヤーさんかい」周りの患者さんたちが固唾を呑む。そもそも声高だ。ささやきなんかではない。
「大体ねえ。あたしゃ、そういった人間は大嫌いなんだよ。あんた、どうせ博打かなんかで、すってんてんになっちまったんだろ」大島さんは、一瞬ドキッとした顔をすると、みるみる真っ赤な顔色になっていった。おかまいなしに田中さんは続ける。
「大体ねえ、競馬やパチンコで家を建てた奴なんかいないんだよ。普通は家をなくしちまうんだよ。いいかい。金輪際、博打なんかするんじゃないよ」
驚いたことに、大島さんは深々と頭を下げた。「オッカさんの言うとおりだ。金輪際、博打はやらないって約束すっからよ。嫌わないでまた叱ってくんな」「ふん。2度はないからね」
大島さんは、処方箋を受け取ると、周囲の人たちにも頭を下げて出て行った。
初対面、それも声をかけるのもためらわれそうな相手を叱り飛ばした田中さん、さっそうと帰っていった。診察を受けるのを忘れていた。
狐につままれたような顔をした患者さんたちが残った。
※引用 アイユ6月号 2009年(平成21年)6月15日発行 (C) 財団法人 人権教育啓発推進センター |